仕事帰りにお近くの書店でも、すぐに届くAmazonでも。 |
ツイッターで以前から気になっていた音楽ライター・磯部涼さんと、編集者・ライターの九龍ジョーさん(クーロンと読むそうです。以下敬称略)の対談本。
『遊び疲れた朝に―10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』5月10日発行となっております。
アマゾンちゃんがオーストラリアのあたしのもとに届けてくれたのが15日。早い。すごい。
送料込み三千円也になってしまったけど、こんな面白い本に出会えるなんて。国内3000円でも買いました、多分。
これで興味を持って本を読んだらすぐにもっと読みたくなっちゃう251ページになることでしょう。
最後に長いものを読んだのは友人Mからもらった伊藤計劃の小説ぐらいしか思い出せない、あとこれまた貰い物のやし酒飲み。
ネットでもあんまり長いのは読めない。
それがもう3周目に入っているというから自分でも驚きと感動でザワザワして、実際に読んでいて思った事を書こうとしてもソワソワして何から手をつけたらいいかわからなかったりだったのです。
この本のどこにそこまで興奮していたかは(すぐにでもタンブラーにコピペしちゃいたいような文章だらけなところを何とかその衝動は抑えつつ)ちょうどわたしの考えていたこととリンクしているような所を掻い摘んで引用させていただきつつ、まあいつものようにあっちこっちに脱線しつつになるでしょうが、これは自分のためにもアウトプットしておきたいので長くなることを覚悟で書きます。
コメントでもメールでもツイッターでも反応をお待ちしております。同じようなことを考えている人は今いっぱいいると思っています。あと明らかな誤認、誤字脱字、リンク切れなどあったら教えていただけるとありがたいです。よろしくお願いします〜(◕∀◕)
おふたりの話は個人的な嗜好というか芯のようなものを持ちつつも、豊かな知識のもとにフラットな目線から語られている印象。そういうのが知りたかったの!みたいな。示唆に富みながらユーモラスで何度もニンマリ笑える。目からウロコでもある。
まず全四章を概観してみます。といっても恥ずかしながら浅学で薄識なわたくしの全く知らない話とか、名前だけなら…みたいのだらけなんですが、それを物ともせず読めるというのは、なんというか、うん、も〜知識はいらない〜とかでは無いなまだ!と思うのでした。知ってる人・シーンもいっぱい出てくるからゃったのはある=3ハァハァ
第一章 2000年台のサブカルチャーと銀杏BOYZ
¶ みんなみんな、銀杏のファンだった/バンド・ドキュメンタリーの時代/2000年代「童貞」リヴァイヴァル/「キツさ」を受け止める銀杏BOYZの宗教性/圧縮情報のシャワー/銀杏は「大人」になったのか/ポスト・銀杏BOYZといえば誰ですか?/自然主義の現在形
2007年に九龍・磯部両筆者が初めて一緒に仕事をした対象のバンドでもある銀杏BOYZについて。
銀杏BOYZはこのふたりにとって少なくともこの本の中においては最も重要なキーワードであると思う。全ての章に必ず「銀杏BOYZ」はいる。
第二章 「人生を賭ける音楽」ではなく
¶ 2000年代、ぼくらは何をやっていたのか/実話誌に見るアンダーグラウンドの変容/日本に「インディ」が根づくとき/なぜ音楽のなかで社会について語ろうとするのか/下からの再開発/音楽と「リベラル」/韓国インディ・シーンの今/世界標準か、ガラパゴスか
2004年にふたりが初めて会った頃の話から。「フリーター」ということばの「自由」が「不安」を生みつつ合った00年代初頭、<RAW LIFE>の流れあたりをルポしていた磯部と、<ウラBUBKA>でライターをしていた九龍が、アンダーグラウンド、ヤンキーや、ヒップホップなどに「地域性」や「歴史」を当時の社会情勢と絡めて振り返りつつ、第三章にもつながるような「社会運動家としてのミュージシャン」や、韓国のシーンと日本のシーンの相関から「アンチ・ダンス・ロー」に流れていく。
第三章 社会を考える
¶ 音楽が社会を変える必要なない?/暗い東京を楽しむ/現実の「複雑さ」の前で/風営法が本当に守るべきもの/歌と踊りの政治性/「ずっとウソだった」ーヒット・ソングが示すもの/「二万字インタビュー」最高
2010年、震災前に九龍が坂口恭平を磯部に紹介したところから始まる三人の関係と、ここ10年で顕在化してきた非正規雇用問題や経済格差、3.11以降の社会、”不謹慎”、磯部が今まさに取り組んでいる風営法とクラブの問題、政治に関わるときのネゴシエーションの大切さ。ヒットソングと社会・政治。
『九龍:いろんなことが政治的ではあるからね。もちろん恋愛も、食事も、夜遊びも。 磯部:逆に言うと、政治も恋愛と同じくらい身近な話でもあるからね。』(p.169)メディア論的立場から再考する「ロキノン二万字インタビュー」の項もそれそれ!って感じで面白かった。
第四章 音楽のなる場所
¶ シティ・ポップ・ブームの多層性/都市的な音はイメージを求める/Jポッポの復権と葛藤/「文脈読み」で窒息する前に/cero以降/SNS的リアリティ/東京はどこにあるのか/地図を描こう
銀杏BOYZがあって、さあ現在進行形の10年代のインディ・ミュージックといえば、cero ですねという話なんだけど、第二章も阿佐ヶ谷にあるそのceroのメンバーの母のバーで収録していたり、この本は銀杏BOYZにはじまってceroに続いていくと言っていいくらい重要なキーワードであり、周辺のシーンも含め何度も登場する。この本で言っている「インディ」は特にこのシーンなんだな、という流れがわかった。
そしてやっぱりといいましょうか最終章らしく一番ワクワクしたし自分にもつながってきたのがわかりました。
読み終わって「はじめに」と「おわりに」で全部まとまってる!と思うのです。『』は引用。
九龍はこの本について狭義の「インディ・ミュージック」ではなく『日常的に親しんでいたり、関わりのある音楽について語ってみた』本であって、『しかし、そうやってさんざんに話をつくし、議論のための前提やら知識やらがすっかり雲散霧消してしまい、自分たちですら何について話をしているのか怪しくなってきた頃、それぞれの人生の手触りのようなものにゴツッとつきあたることがある。そこはおそらくそれまでの議論が全てムダになってしまうような波止場で、きっと音楽を楽しんだり、音楽に心底震えたりするときの自分もそんな場所に佇んでいる。』
磯部はこれまでずっと『ライブハウスやクラブといったいわゆる”現場”と呼ばれる狭義のものではなく、それぞれの自宅やインターネット、または社会や心情も含めた複雑な空間』としての『”音楽が鳴る/生る/成る場所”』のことを考えてきたと書いている。そのことがわかるから九龍が音楽について書く文章が好きなのだと。
あたしもおふたりのお話好きです♥
それはまさしくこの一年くらい日本を離れ オーストラリアで考えていたこと に、更なる発展の希望を与えてくれるような感じでした。展望よ〜し!あたしの考えていた”音楽がなる場所”についてはもちろん、光明というか、それも多方向から差し込んでクロスオーバーしていくような。自意識過剰なのかしら?
『もうニューヨークとかオリンピアに幻想を持たなくていい、自分の生活圏で起きていることを記録すればいい』(九龍:p.90/日本に「インディ」が根付くとき)
では第一章から。
ふたりの銀杏愛を感じさせる出ててくる出てくるいろんなエピソード。
わたしはまさにその世代ど真ん中だという認識でいるけど、実は銀杏にハマったのは長かった「銀杏ダサいんじゃないのか」時代を抜けた二十歳を過ぎた後。最初に銀杏を意識させたのは大学に入ってから会った友人Mで、実際それは私にとってとても意味深いものだったと思う。雪が溶け、冷戦が終わったというと、言い過ぎと叩かれるのだろうか。
「銀杏ダサい」時代の私はというと、はっぴいえんどフォロワーみたいな日本語にこだわったソフト?ロックなんだけど、その先にアメリカのブルースとか、たぶん「シティ・ポップ」みたいのも見せてくれるようなバンド、今はひとりになってしまった田中拡邦のMAMALAID RAGにハマっていた。追っかけだった。
2005年に初めてフジロックに行ったのは彼らのステージを見るためだし、RSRではサポートで叩いていた坂田学のドラムに笑った(苦)好きなんですけど坂田学。あの手かずというかオカズというか笑。彼らが定期的にライヴをやっていた渋谷のB.Y.Gには毎回通って、そこで友達になったお姉さまグルーピーの方々には大変よくしていただし、風味堂とかバンバンバザールとかBBBBを聞き出したのもBYGのおかげです。美しく若いなんとか。好きです。
そんなフジロックもわたしにとって今年は節目の10年目。decade! そう globe!
globeが2004年にあんなに 素晴らしいライヴ をしているのを知っていたとしてもたぶん興味を示してなかったし、それは聴かず嫌い、観ず嫌いという点では銀杏とも似ている「ダサい」という感覚に近いのかもしれない。
でもその時のあたしは岸田!めがね〜!とかMOOOOOOOBYYYYYYYY〜〜〜〜とか言ってはしゃぐ方を選んでいただろうし、やっぱりタイミングかな〜と思う。
銀杏の場合はまさに本の中でも言われている『童貞を売りにしているバンドでしょ?』という感じ。わたしは当時まだ異性を知っているわけでもなかったし、でもかなり意識していたはずだけど、スノッブ(この本で知りました)な感じというか、もっと大人っぽいものを聴きたかった。白シャツにニットタイにカーディガンにテーラードジャケットだった。
globeはもともとスキーが大好きー=globeも好きーという公式通りに好きだったし、今ではいろんな意味でもっと好きなんだけど、それはもうメインストリームに感じざるを得ない「ダサさ」であって、なんでもそうだろうけど。
ちなみに「ダサい/ダサくない」という言葉とか感覚ってあたしはとても大切だと思う。
まだどこがどう大切なのかまとまっているわけじゃないんだけど、生きていく上で「ダサさ」を考えるのは「カッコよさ」を考えるのと同じくらい有意義だと思っている。
『モンパチがちょっとチャラいと思う人はゴイステを聞いてましたね。』
なんと出てきたのが 嫁入りランド のメンバーで、しかもこの本の写真も撮っていたという寺沢美遊(なんてステキな名前♥)嫁入りランドcho=好きなんだけど、ユカさんしか声わからないのよね〜。ライヴ遊び行きたい!
まあそんなお膳立てが良すぎてぽぽーんと本の内容に入っていけた。自分にとってもちょっと特別だと思っていたこの10年を思い出させるのによく作用したんだと思います。
今は、なぜここまで銀杏が重要なのかということが、それを知っている人によって書かれた多くの実証や考察によって、より理解が深まったと思う。言語化されるというのはほんとにありがたいことだ。
そして大森靖子も出てくるもんだから、ソフトカバーの両表紙の端はしおれてしまいました。
靖子ちゃんが峯田にメールを送っていたのはどこかで知っていたけど、なんせ身内だと思ってる人が出てくるとビックリします。「絶対少女」聴きまくっているので、そういうタイムリーな感じがまた。H Moutainsのケンジくんをリキッドルームのワンマンライブで招聘したってのがまたオーストラリアでひとり心躍らせておりました。ききたい。
わたしが東京のライブハウスに通いだしたのが2010年から。
友達の友達のバンドみたいな感じでmotherという好きなバンドがいて、そこに友人Mが入ったので最初はその後身バンドであるkooreruongakuのライヴに通うようになり、ライヴ写真を撮るようになり、映像を撮るようになり、オワリズム弁慶というバンドに入り、よりはしゃぐようになり、脱ぐようになるというのが2013年までの流れ。
東京と言っても最初は学生時代に遊んだ下北沢、そして新宿が中心だし、その中でもだいたいいつも行くライヴハウスは限られてきて、新宿Motionと下北沢THREEが一番多いかもしれない。リンキー系列にも古くからスタジオを含め大変お世話になっております。
そこらへんで出会った人たちが一年前は予想もしていなかった形でクロスオーバーしていく様子がとても面白くて、それを実際に起こっている日本のライヴハウスの中ではなく、インターネットでつながったオーストラリアでも”現場”として体験しているような気分でいたのです。ひとつの出来事や、音楽だけに関わった話ではなく、それこそ「生き方」とか「人生」みたいなところまでつながっていくような。それはもう今や当たり前、テレビとか車みたいに人々の生活の前提としてあるインターネットだけの話でもないし、やっぱり「政治」とは絶対に切り離しては考えられないのであって、そういう面白い話はこの本にいっぱい出てきます。
いつの頃からかライヴの後の打ち上げとかで呑んでるときに「今周りにいるちょっと売れてきているバンド例えばオワリカラとかがスピッツとかみたいに大きく売れることはないでしょ、じゃあそれより売れない人たちはやっぱりだんだんバンドやめちゃうよね」みたいな全く失礼なことをのたまわっていた。オワリカラはMotionのドリンクカウンターの後ろに大きいポスターが貼ってあるのだ。他意は無いし、極めて可能性の高い推測だと思う。
ちょっと長いけど引用。
九龍:ボクがいつも思うのはそういったアーティストたちと、例えばRADWIMPSとかSEKAI NO OWARIとか、『ロッキング・オン』系の雑誌の取り上げられるようなアーティストってパイのケタが違うじゃない?でもやっていることがそこまでちがうのかどうか、ってことなんだよね。磯部:そこまでちがうも何も、インディの方が明らかにおもしろいと思うけど。九龍:いや、そうかもしれないけど、さっき言ったような「カリスマを見に行く」という構図を作るかどうか。そこに行かずにどこまで自分たちの音楽の受け取り手を増やせるか、ということがずっと気になっていて。ceroはひとつの指標だよね。彼らがどこまで行けるのか。(中略)磯部:まぁ、90年代後半のミスチルとかスピッツみたいな売れてるバンドと、サニーデイとかGREAT3みたいな通に受けるバンドが、それぞれ、ゼロの数をひとつずつ減らした感じじゃない?九龍:たしかに構造としてはそうかもね。いまゆるメインストリームもケタをひとつ下げている。大森靖子がメジャー・デビューを発表したけど、大森さん自身も、「じゃあ、レコード会社がどこまでおもしろい動きをしてくれるのか?」っていうのをかなりシビアに見ているのが頼もしかったね。(p.206、第四章/cero以降)
これはやっぱりそうだよな〜と思ったけど、そう思い始めたころとは思考のベクトルが変わっているから、当時どこかにあった悲観的な感情は今はほとんどないし、むしろワクワクさん。
その頃あったというのも、あたしは当のバンドをやっている人=バンドマンでは無い(オワリズム弁慶はいわゆるバンドとはくくれないと思う)のになんでかな〜と自分でも不思議に思っていたのだけど、それはあたしがバンドマンが好きだから、そこにある音楽も空間も人間もシーンも好きで、そのフィールドが興味の対象で、何よりまさにそこが自分の遊び場だと思っているからだと思う。
『自分の「人生」って自分しか、それも一回しか体験できないんだよ?究極の一回性。だからこそ、他人の「人生」にも興味があって、詳しく訊いてみたい。』(磯部:p.175)
しょんぼりじゃなくてワクワクなのは、売上が『ゼロの数をひとつずつ減らした感じ』でも、例えば自分たちでシーンをつくろうとしていたり、意識的にいろいろ考えて実践してみたり、それはやっている人にしかわからないと思うのだけど、かなりワクワクするはず。「二万字インタビュー」じゃないけどロキノンがマーケティングの中でつくりあげていったのであろう「カリスマ」じゃなくて、周りを見渡せばもっと「ヤバい」と思う人がいて面白いっていう環境にいるのであればなおさら身に沁みて実感できる気がする。
つまり楽しいはつくれるってこと。
まだどこかで誰かが自分を楽しませてくれるっていう気持ちでいるともったいない気がする。
まず探してみる。自分が好きそうなもの、求めているものがどっかにあるかもしれない。
しかもそうして能動的に出会った音楽は、それがいろいろハマった時の多幸感までもたらしてくれると思う。例えれば売れてないけど可愛くて頑張ってる地下アイドルを発掘して見守るファンの親心みたいなところもあるはずだ。
『ちなみに『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』というタイトルには、「誰かに憧れる時期は終えて、自分たちで新しいことをはじめよう」みたいな意味を込めている。』(磯部:p.79)『2冊目の単著『音楽が終わって、人生が始まる』っていうタイトルには、旧来的なロックンロールにうかがられるような「人生を賭けるような音楽」よりも「生活に根ざした音楽」のシーンを築きたいみたいな意味も込めている』(磯部:p.80)
いちリスナーとしては自分ができない分「人生を賭けるような音楽」に感じる切迫感とかリアリティとか、ある種の羨望は到底無視できない感情なのだけども。それはマジョリティだろうからまあここではとりあえず置いといてと。
インターネットは新宿でも東京でも日本でもロサンゼルスでもメルボルンでもメキシコシティでもケープタウンでもどこにだってつながっている。この場合はつながっているというよりも、イメージとしては「インターネット」というレイヤーに近い気がする。tomadがインターネットが国家になるかもって言っていたのとはちょっと意味が違くて、それこそ坂口恭平的なレイヤーとしてのインターネットというか。もうインターネットが国境を超えるとかそういう類いの話でも無いと思っていて、今やインターネット、ITは生活のほとんど全てに関わっているのだから、iPhoneやパソコンの画面上とかでの物理的な認識のインターネットじゃなくて、思考の中に、生活の中にインターネットというレイヤーがあるというか。「インターネット」の拡大解釈?
磯部:いまだったらそうやって大量の情報を捌く能力をみんなある程度身につけているけど、2000年代前半ぐらいは、いっぱいいっぱいになっていたと思う。銀杏の初期の混沌は、その情報に溺れる感じを表していたりするのかも。九龍:まだあの頃は「我々はIT社会の情報の渦に立ち向かっていかなきゃいけない!」って気合いを入れる感じがあったけど、いまはもう普通にこなしているもんね。「ニュータイプ」というかね。磯部:だってみんな、前見なくても歩けるじゃん。誰もがiPhoneの画面を見ながら歩いてるのに、ぶつからないっていう。新しい身体性を獲得しつつある。(p.51、第一章/圧縮情報(ノイズ)のシャワー)
磯部:プライバシー・ポリシーに対する価値観が以前とは違うっていうか、プライバシーは晒されていてるのがデフォルト。(中略)それとも、みんなTwitterやらFacebookやらTumblrやらInstagramやら、複数のアカウントを持って、複数のタイムラインを行き来しているのが当たり前なわけで、生活もそのひとつに過ぎないって感じかな。九龍:そうした空間が加わることで、一人の人間がレイヤーとして複数化するからね。いないのにいたり、いるのにいなかったり、そこかしこにいたり――。(p.210、第四章/SNS的リアリティ)
九龍:たしかにかつてのように、アニソンを聴いている人たちがアキバ系ファッションをしている層と重なるのかと言われれば微妙だし、いまはある音楽とそれを愛好するリスナーの照応関係はもっと複雑になっているところはある。(p.99、第二章/なぜ音楽のなかで社会について語ろうとするのか)
そしてその結果、同じ事を考えていたり、びっくりするような面白いシーンに出会ったり、逆に意図的にしろ偶然にしろ自分が発信したものに、思わぬところからの思わぬ反応があったり。そこで人と人が出会ってつながっていく。だからインターネットは素晴らしいなと思う。まあ、そんなことは 以前にも書いたのだけど。
この本でも終始言われているように、情報がインターネットから無限に手に入る時代において、これは単に情報の取捨選択とは言い切れないような気がしている。どこまでその情報が自分に必要なのか、アウトプットの為だけじゃなく、インプットとしても何かしらのスルメ的要素が入っているのかとか、「⌘+delete」じゃなくてフォルダ分けというか。
九龍:あの頃から情報のギアがひとつ上がったんだよね。銀杏以前はもうちょっと雑誌や音楽もゆるかったと思う。でもいまとなっては、あらゆる情報に目配せしつつ上手に取捨選択していかないとダメ、っていう状況はサヴァイヴァルでもなんでもなくて、若い子にとっては至極あたりまえの現実でしょう?(p.45、第一章/「キツさ」を受け止める銀杏BOYZの宗教性)
九龍:いまはやっぱり、ひとつの音楽から引き出せる情報が過剰でしょう?前にも言ったけど、ももクロなんてそこに流れ込んでいるコンテクストの量はかつてのポップ・ソングの比ではない。それを全部享受しきることができない以上、聴いている側の人間も、ある程度自分の都合でその文脈を捌きつつ聴くようにしないと、生活が破綻してしまう(笑)(p.202、第四章/「文脈読み」で窒息する前に)
九龍:でも、どちらにも行けずに、かついろんなものが見えすぎていたり、なんとか文脈を読みきってやろうとしてる人たちにとっては苦しい時代だと思うよ。(中略)九龍:ツッコミ側から、ツッコまれる側に回ることができればラクなんだけどね。(p.201、第四章/「文脈読み」で窒息する前に)
九龍:いまのアイドルって仕掛けがプロレス的だから、制作側に回ったほうがおもしろいっていうのはあるんじゃない?磯部:そうだね。もしくは制作側が強かで、批評を取り込もうとしているということもあるのかもしれないけど、当の批評家も楽しそうだし、結局、状況分析より、状況をつくることに関わるほうが書き手としてのいちばんの幸せなのかなぁなんて思ったり。(p.174、第三章/「二万字インタビュー」再考)
磯部:情報の圧縮度、性愛の問題、自作自演の物語、銀杏がやってきたことをアイドルもまた受け継いでいるのかもしれない。(p.46、第一章/「キツさ」を受け止める銀杏BOYZの宗教性)
九龍:前野健太が、タワレコの「NO MUSIC, NO LIFE」のポスターに出た時に「今がどういう時代か、というのが分かっていたら、『歌』は答え合わせになってしまう」っていうキャッチをつけてたんだけど、まさにその通りで。(中略)リスナーの誰もが楽理の理解に走る必要はないし、その逆にマーケティングに行く必要もない。それぞれの文脈に即して楽しめばいいんだと思う。磯部:前の章でも話したように、最近の音楽批評ではポピュラーなのものに現代性を見出す語り方が主流になっていると思うし、一方で、インディ・ミュージックがテレビ番組やお笑いみたいなエンターテイメントをイミテートしているところも何か引っかかるんだよな。当人がその可能性を自覚していないっていうか、「アンダーグラウンド」って言うと、すぐ、「現代の文化はタコツボかつ水平な構造であって、”メジャー/マイナー”みないな上下構造は存在しない」みたいなことを言い出すひとがいるんだけど、アリーヤがシー・パンクをパクったり、モーニング娘。がブロー・ステップを導入したり、新しいものを生み出す実験の場として「アンダーグラウンド」が機能しているのもたしかで、実際、こんなにも日々、マイナーで新しい音楽が生み出されている時代もなかったと思うよ。(中略)九龍:そんななかでも、もっとミクロな、自分にとってしっくりくるような感覚で音楽とつき合えばいいと思うんだよね。(p.202、第四章/「文脈読み」で窒息する前に)
磯部:オレは「ポピュラー」か「アンダーグラウンド」かと言うよりも、極端な話、個人的なつながりがあるものしか信用しない。(中略)ceroにしても、妻の高校の同級生の麻理ちゃん経由で知ったわけだからね。そういう、個人的な関係の絡みや、出会いの積み重ねという代替不可能な一回性こそが「人生」。批評は、究極的には、そこによるしか無いと思うんだよね。(p.118、第二章/音楽と「リベラル」)
引用の引用になってしまいますが、「東京の演奏」というイベントのオーガナイザーの糸賀こず恵さんの文です。
『「東京の演奏」というのは地方出身者である私が東京で出会った演奏、を指すのです。「これが東京の音楽だ!」という意味ではそもそもなく、ただ結果的にみんなの音楽のことは「これが東京の音楽だ!」と大きい声で言えるのですが。コミュニティがあったり、そんなものどうでもよかったり、しますが、私生活では接点の無い人々が音楽だけで繋がれるという現象が毎夜発生する事実からすると、「繋がる」というのは音楽の大きな力のひとつです。みんな今はクロスしていなくても、これからすることが無くても、既に東演で繋がっているんだからね君らは、という思いでいます』(p.222、第四章/地図を描こう)
ちょっと個人的は話に。
磯部:<RAW LIFE>は主催(主宰?)の浜田淳さんが、BetaLandがやっていたようなDIY・パーティのエッセンスを、ロック・フェスに注入したようなところがあって、じつは当時はちょっと薄いと思っていたんだけど、今振り返ると本格的なドロップアウターや不良だけじゃなくて、普通の音楽ファンも出入りしていたのとこがおもしろいかな。九龍:<フジサンロクフェス>もまさにそんな感じだったよね。磯部:cero『My Lost City』(2012年)のジャケットの写真も手がけている鈴木竜一朗くんが、富士山の麓にある実家の庭で開催したフェスね。cero、片思い、表現、NRQなんかが出ていたんだけど、客はそれぞれのバンドの友達が集まっていて、初対面のひともどこかでつながっていて。その内輪なんだけど開いてる感じがよかった。九龍:コンセプトは「クロープン」。クローズだけどオープンっていう。磯部:みんなでライヴを観て、カレーをつくって、雑魚寝して。九龍:その場で即興的にいろんなユニットも生まれてね。わざわざユニットという言い方もする必要がないという。それこそ「音遊び」だった。(p.105、第二章/なぜ音楽のなかで社会について語ろうとするのか)
「東京」は首都圏一帯でもあるから、海外から見たら千葉もTOKYOになるわけで。ヘタしたら日本中なりかねないけど。
デロッピードロッピー というバンドをやっている松田兄妹が、成田空港駅が最寄りの実家にある土蔵、庭、および母屋で開催している<蔵フェス>というDIYフェスがある。
<フジサンロクフェス>のような意識的なコンセプトがあるわけではないと思う。ただ、実家に蔵があって、機材もあってライブができる環境があるから自分たちでやっちゃえというイメージだけど、文章にしてみると<フジサンロクフェス>と同じになってしまう。クロープンな環境でライブ見て、松田母特製のカレーを食べ放題して、お酒も飲み放題して、ランランランズのギターボーカルであり釣り人のトッシーが釣ってきた魚を松田父がおこした火で焼いて食べたり、母屋で弾き語りしながら雑魚寝するという。わたしは勝手にフジロックと並ぶ日本の二大フェスと呼んでいる。
いわゆるDIYフェスって他には体験したことがないから比較はできないんだけど、蔵フェスは音がいいと思う。バランスとか。これはゲスバンドやkooreruongakuのレコーディングとか、楽器の改造や修理なんかもしているデロッピードロッピー妹の夫、こいち の存在が大きい。Ustreamで中継されてアーカイブも残っているからそのDIYらしからぬ音の良さはわかってもらえるのではないだろうか。
ただ、<とんちれこーど>のシーンはこの本で言われているようにサポートなんかでフレキシブルな活動ができるプレーヤー個人が点でつながっていくという姿が想像できるのに対して、蔵フェスはバンド単位でつながっていくイメージだから当たり前だけど同じではない。もちろん個人的なつながりは何かしら生まれるだろうし。どっちがいいかとかではなく。
磯部:先程の「職人」の話と同じだけど、「アーティスト」である前に「プレーヤー」だという。九龍:たとえば銀杏BOYZのような「替えのきかなさ」とは、ちがったバンドのあり方だよね。(中略)磯部:冒頭の章で話したような銀杏BOYZのヤバさとは真逆のベクトル。(p.192、第四章/「都市的」な音はイメージを求める)
磯部:まあ、ceroはフィクションにこだわるひとたちだから、本来はライヴ・パフォーマンスよりの楽曲制作の方が向いている。(p.197、第四章/Jポッポの復権と葛藤)磯部:だからこそ、大瀧さんみたいにサウンド志向のひとは必然的にライヴをやらない方向へ進んでいくよね。(中略)九龍:そんななかでceroのライヴはいま、その分岐のところにあるからおもしろいなと思いながら見てるよ。(p.198)
磯部:ここ数年の日本のインディ・ミュージックを考える上で、「シティ・ポップ」というトピックがひとつの大きなものとしてあるよね。ただ、それはいわゆる「シティ・ポップ・リヴァイヴァル」みたいな無邪気な時期をとっくに終えていて……。たとえば、ceroは2012年10月にリリースしたアルバム『My Lost City』――そのタイトルからして意味深長だけれど――の最後の曲「わたしのすがた」で「シティ・ポップが鳴らすその空虚、フィクションの在り方を変えてもいいだろ」と歌い、シティ・ポップの本質を看破した上で、それを時代に合わせてヴァージョン・アップさせることをはっきりと宣言していた。九龍:当初は、彼らにどこか70年代のティン・パン・アレーだったり、はちみつぱいだったりの空気を感じていたけど、そうした参照軸を成り立たせる無時間性への違和感やいらだちを、「わたしのすがた」からは感じたよね。(p.180、第四章/シティ・ポップ・ブームの多層性)
そうは言われてもやっぱり今求めているのは『かつての日本語ロックからシティ・ポップへと流れたティン・パン・アレー的なものの影』ではなく、言ったらやっぱり銀杏的なものなのかもしれない。それは単純に反動というか、ハマった順番が年齢的に逆だったみたいなものなのかな。
MAMALAID RAGがはっぴいえんどをはじめそのあたりにハマる入り口になったわけだけれども、ラベリングやカテゴライズを気にして聴いていた記憶は無いし、空気公団とかメレンゲとか初恋の嵐とかそういうソフトなロック、ポップスを、10代の反抗期を経験せず聴いていた身としては、『今はクロスしていなくても、これからすることが無くても』とりあえず今はいいかなってそれだけなんです。遅かれ早かれ手を出すのだろうけど、それはタイミング任せです。
<RAW LIFE>の存在を知ったのも10年代に入ってからだと思うけど、YouTubeで見た時「これは誰でもいいから記録しておいてよかったやつだな」と思った。<Take Away Shows>のVincent Moonには、テクニック的なこと以外にも大きな影響を受けていると自覚してるんだけども、彼はインタビューでこう答えている。
自分の立場が、今この時代における「記録する立場」であるということには不思議な感じもしますね。今の時代はあらゆる「記録」が氾濫しすぎて、ピュアでオーガニックな人間関係が数少ないからこそ、記録者としての仕事は複雑で難しいことであるように思えます。僕が常にミュージシャンに言っているのはとにかくユニークなものを共に作り上げましょう、ということなのです。そこにはプレッシャーは全く存在しません。なぜなら人生における経験や快楽のためだけに行っているからなのです。それはつまりあらゆる音楽ビジネスや社会が強要するルールや制限を忘れた詩的な交流なのです。
僕は人間という生き物が間違いや失敗を積み重ねて生きていく様子、そして「今ここで、この場所で」の積み重ねこそ人間の人生であるという考えが大好きなんです。僕の持つすべてのエネルギーをそのような瞬間に捧げるということは、言葉の通り人生の祝福という行為であり、全ての瞬間を大切に想い、全ての出会いを最初で最後のものとして大切にしていくこと。僕が昨年プロジェクトを共にした友川さん(友川カズキ)が言っていたように、「別れ」というものは存在しないのです。生きていく上で存在しているのは「初めて」のことだけ。「死」も、別れではなく「初めての経験」なのですから。
そしてまた蔵フェスでつながってきます。
ハラフロムヘル や フジロッ久(仮) に出会えたのは蔵フェスのおかげ。
これは誰かが記録しておかないともったいないやつだと思った。
フジロッ久について言えば、一般に周知されるようになるのは銀杏BOYZとのライヴからだろし、サウンドデモや、ちょっと前に学生による立法院占拠があった台湾のバンド 透明雑誌とのつながり、そして『インデペンデントのまま音楽活動をしていくことがダイレクトに政治問題とぶつからざるおえないとい側面がある(九龍:p.123)』らしい韓国インディー・シーンが、日本の<素人の乱>をモデルにしていたり、と、まだまだ関わりの浅いわたしですら本を読んでいろいろとつばがったのがおもしろかった。
しかし、これだけは言えるのが、わたしは彼らがやっている社会運動的な側面から興味を持ったわけではなく、最初に音楽ありきで好きになったということ。この場合は磯部さんが「社会運動家としてのミュージシャン」には期待していないというスタンスと近からず遠からずという感じか。それは何もフジロッ久(仮)だけに限った話ではなく、「バンド」というひとつの形態について言えることなのだけど。その塊を構成するメンバー全員が果して同じ志(というと大げさかもしれないが)をもって社会的活動ができるのかという点においてわたしは少し懐疑的だ。社会変革に携わろうとする彼らの活動を坂口恭平のように「そんなのは無駄だ」とは到底言えないし、彼らの音楽が好きだということにしたって、そういった文脈の中で聴いているからという、因果関係ではなく相関関係があることは言うまでもない。行動するにはエネルギーがいるし、誰もができるわけではない。そしてその熱量がそのまま音楽に「説得力」や「チカラ」として還元されているとも思う。
磯部:「怒っているのはわかった。で、どうするんだ?」って代替案を求められても、それを音楽で表現するのは難しいし、再生可能エネルギーについて歌ったらいいのかっていうのとも違うし、やっぱり、具体的な行動は音楽家の役目ではないと思うけどね。とはいえ、誠実なミュージシャンほどいかに「それを音楽で表現するか」っていう問題に向かい合って迷走してしまうというのもまた仕方がないことなのかもしれない。(p.152、第三章/現実の「複雑さ」の前で)
でもやっぱり個人的に一番ワクワクしたのは、ゲスバンドが SCUM PARK、さらには 歌舞伎町Forever Free!! (2014/5/26@新宿LOFT)、そしてまさかの ラブリーサマーちゃん にまでつながったこと。
みんなもケータイ捨てよう!
■6/2月@新宿LOFT Bar
共同企画「飲放題2014」
19:00〜 1000円D込飲放題有
ゲスバンド
東京真空地帯
壊れかけのテープレコーダーズ
Guest Act:ラブリーサマーちゃん pic.twitter.com/LrHiDlBSSP
— はしもとぽこにゃん (@pcGenginn) 2014, 5月 20
もともとクラヴよりライヴハウスの人間だったわたしが、koorerungakuと親交の深かった(サウンドは真逆くらい違うのだが)ゲスバンドの前身バンド、Creepy popと出会うのは2010年。(ゲスバンド結成のいきさつは 高野さんのデブログ が詳しい)
そのライヴハウスという”現場”を離れて1年くらい経った2013年末くらいからオンラインミュージックの巨大プラットフォーム、サウンドクラウドやバンドキャンプでヴェイパーウェイブやフューチューファンク、ジュークなどを掘り掘りし始めた。タイミングとしてもちょうど良かったと思っている。ヴェイパーウェイブが流行り始めたらしい2011年ごろの音源よりも、往々にして今の出てきている音の方が好きだからだ。
どんなのが好きかっていうのは暇な方はあたしの タンブラー 流してください。ちなみにもはやVaporwaveともFuture Funkとも思っていない(カテゴライズなんてどうでもいいという意味で)マクロスMACROSS 82-99 がダントツで好き♥
ここで面白いなと思ったのが、ヴェイパーウェイブはその成り立ちからベッドルームミュージックの代表格(なにそれ?)と言っていいとおもうんだけど、それに対してjukeはフットワークという一般人はまず踊れないような高速のダンスという身体性との相性の良さで知られている。そしてSCUM PARKの首謀者のひとりであるHave a Nice Day!というバンドの アサミさん のツイッターアカウントは「ベッドルーム」(だった時期もあったの)で、もともとベッドルームミュージックの人なんだろうけど、そこがまたいろいろと面白いと思った。<SCUM PARK>のメインがバンドだとすれば、DJなどがメインの<INTERNET SCUM PARK>ではイベントの中に<タンブラーの楽しみ方>という企画(というのかな?)まであったり、”インターネットモッシュピット”なるハッシュタグまでつくっていて、かなり興奮した。今でこそ家にインターネットが通ってないから、図書館とかマクドナルドまで行ってネットをするんだけど、ネットがあった時はバイトしてるとき以外ずっとタンブラーをやっていたと言ってもいいくらいどっぷりだったので、まさに「インターネットが”現場”だ!」とはしゃいでいた。
ちなみにわたしはHave a Nice Day!もNATURE DANGER GANGも生で観たことが無いのだけど、ハバナイの音源はすごい好きだ(生より好きっぽいのがちょっと心配だけど)。メンバーの内藤さんは以前テーストオブ学生気分というMC、トラックメイカーPCその他、鍵盤ハーモニカの3人からなるユニットでフリースタイルラップをやっていて、オワリズム弁慶主催のイベント に出てくれた時からの大ファンだし、MVを今は大森靖子のスタッフとしても多忙そうなカメラマン仲間のニノミー(二宮ユーキ)が撮っていたり、ポニーちゃんがあたしの二十年来の幼なじみでアーティストの平川恒太の後輩だったり。NDGはまさに「ライヴハウスは脱いでもいい場所」だと信じ続けていたあたしが現場に欲していた存在だし、これまた会ったことはないんだけどサックスのふくすけくんはちょっと前までオワリズム弁慶にも参加していたり、これでシンパシーを感じない方がどうかしてるというくらいの状況だったのです。
話を戻すと、この本では「シティ・ポップ」のイメージとして『都市の中にバラバラに存在する部屋の中で、それぞれがひとりで聴いている姿』や『個室感』(九龍:p.184)を挙げているが、それはヴェイパーウェイブにも絡めて話されていて『それ自体がコミュニケーションの手段になっている』(九龍;p.187)とか、『イメージの空虚さを前衛的に突き詰めているという意味では、ヴェイパーウェイブもシティ・ポップ・リヴァイヴァルだといえるのかもしれない。実際、サンプリング・ネタにもAORとかフュージョンとか、あるいは山下達郎そのものを使っていたりするわけで』(磯部:p.187)『あのローファイさは、オリジナルのシティ・ポップの職人性とは真逆だから、むしろシティ・ポップ批判なのかもしれないけど。』(九龍:p.187)
磯部:一方で、ここ数年、日本の若いDJやトラックメイカーのあいだで、「シティ・ポップ」というよりも、「Jポップ」が復権していることも感じる。たとえばtofuくんやSugar’s Campaignなんかもそうなんだけど、彼らの楽曲は、同じようにネットから出てきたものでも、ヴェイパーウェーブの発想とは真逆のウェルメイドなものだよね。……イメージが重要で、サウンドにはあまり意味がなくて、元ネタにフリー・ソフトでエフェクト一発かけて終わり、みたいなノー・ウェイブなアプローチではない。(p.193、第四章/Jポップの復権と葛藤)
ここでハッとする。
確かにその通りだと思ったんだけど、わたしが好んで聴いていたのは、vaporwaveのタグこそ付いているものの、そういったいわゆる初期?の、もしくは頑なにそれを貫いているヴェイパーウェイブというより、より多くの人に聴かれるように意識してつくられたものだと思う。例にあがった山下達郎はマクロスも大好きとみえて何曲も使っているけど、そこには愛すら感じる。しかもこれも 以前書いた のだけど彼はメキシコ人だ。プロフィールはネオ東京に住んでいるアキラになっていたり、セーラームーンネタが出てきたりするけど、それは現実につくっている本人にとってかなり親しみがあって、わたしの知る限り、初期のヴェイパーウェイブの「イメージ」として引用された「日本」や「東京」とは違い、日本文化、とりわけジャパニメーションネイティブの外国人が「自分の欲しい音に必要なのはコレだ」という感覚で好きなモノを引っ張ってきているように見える。もちろんそれは『コミュニケーションの手段』という側面も持つvaporwaveの延長であるという前提はありで。
とは言えヴェイパーウェイブが象徴するタンブラー的なインターネットミュージックシーンのマナーというか作法みたいなものにばかり目が行きがちで、変化し続けている肝心のサウンドが語られないのはまだこれから先を楽しみにしている身としてちょっとさみしくもある。まあそれも趣味嗜好の話でもあるんだけど。
磯部:もちろん、オレもポップスは大好きなので、いわゆる「いい曲」が増えてうれしい反面、若いビートメイカーのライヴ・パフォーマンスが面白くなくなってきていることも感じていて。tofuくんのライヴにしても、ダンス・ミュージックのトリップ性が薄くなって、自分のヒット曲をかけてマイクで煽るだけになっている時も多いからね。(略)(p.194、第四章/Jポップの復権と葛藤)
ceroの場合は先に引用したような大瀧詠一タイプの潜り方をするのかなという感じ。
tofubeats はプロデューサー?としての重要性みたいなものがこれからもっと認知されてきて、そっちになっていくんじゃないかと思う。実はtofubeatsもライヴで観たいとは思ったことがないし(実際に以前見ることがあったネットストリーミングのライヴも結局グッと来るものではなかった)、ちょっと前にヴェイパーウェイブ周辺の有名人でSAINT PEPSIというアーティストの来日もあったけど、ライヴそのものにはあまり興味が無くて、それよりライヴハウスで思いっきりはしゃぎたい思っていた。単にここオーストラリアで全くと言っていいほど遊んでないっていうのが単純にして最大の理由なんだろうけど。
どちらにしてもわたしの場合はイヤフォンをして楽しむ音楽と、フィジカルに楽しむ音楽がわりとはっきりと分けられているんだろうなと思う。
土屋:これからインターネットはどうなっていくと思いますか。tomad:端的に言うと、「集まっていく」と思うんですよ。集まっていって、国ができるんじゃないかって思うんです。PayPal創設者の人が出資したりしてITベンチャーのための人工島を作る計画があったり、それが後々に国として認められたらすごいなと思う。多分、インターネットを通して最終的にはどうしても同じところに集まろうみたいな流れってあると思うんですよ。それこそ、イベントみたいに。
インターネット・レーベルであるtomadのマルチネレコーズが渋谷WWWや恵比寿LIQUIDROOMでイベントを組んでいたりしたのは、これもkooreruongakuつながりの あたまがぐあんぐあん というVJを経由して知ったイベント<秋葉原三丁目>とか、あたし自身行ったことは無いし詳しくもないのだけど、ネットからリアルへの流れの中で語れるのではないかとおもう。そういえば例のマルチネ<東京>の bo en とか MEISHI SMILE のステージはどんなだったのだろうか?
九龍:だから、みんながバラバラに聴いているというシティ・ポップのイメージについて話をしたけど、音楽が個人で聴く都市の音楽になった後、人々がもう一度集まって音楽を聴こうということになると、今度は逆にトランス・パーソナルな志向性が出てくる。個人を越えた大きなものに身を委ねる感覚というか。そこで「ロックスター」みたいなアイコンでもなく、トランス感覚でもなく、あくまでバラバラな個人のまま集まるにはどうしたらいいのかという問題が出てくる。その点、大滝さんの<ヘッドフォンコンサート>は慧眼だったと思う。(p.198、第四章/Jポップの復権と葛藤)
これは「シティ・ポップ」についての指摘なので、そのまま引用するのもちょっと違うとも思うのだけど、SCUM PARKは今のライブハウスのバンドシーン(演者、客含め)に「なにそのクソつまんないライヴ、こっちの方がSWAGでしょ」みたいな、言ったらかなりアグレッシブなインパクトを与えて(SCUM PARKブログ と 大森靖子ブログ にどこか似た部分を感じるのわたしだけ?)、それに反応した人たちが特定の出演バンド目当てでは無く、イベント自体のクラウドになってきているんだと思う。それにわたしは彼らがが仕掛けた「ライヴでシンガロングできるようにサウンドクラウドで先に新曲を流して予習させておく」というやり方が『人々がもう一度集まって音楽を聴こう』といった状況の中で、まさに今っぽい回答のひとつなのではないかと胸踊らせたのです。
音楽前夜社も関わってくる新宿LOFTの<歌舞伎町Super Free!!!>は、エントランスフリーの上に飲み放題プラン(日本以外で見たこと無い)まであって「スタッフPASSなんていらない 演者とお客さんの境界線ぶち壊してお待ちしております」と言っている。どちらも”現場”を体験してないから当事者たちの物言いや、ネット上での評判からの希望的観測ではあるのだけど、これは胸熱以外に何となろうか。
それらの背景には、ちょっと前にツイッター上などでバンドマンたちがで盛り上がっていたライブハウス論(ノルマなんかへの不満やら、タイムテーブルの非公開、再入場不可の不便さやら、椅子の有無、喫煙など設備的、物理的な問題とか)とか、風営法の問題が大きく取り沙汰されるようになっていたダンス・ミュージック界隈(演者、客含め)の思惑とか、NATURE DANGER GANGについて本書でも書かれている『「とにかく何かやりたい!」っていう衝動を感じる』(九龍:p.200)とかがあるんだろう。どこかでライヴハウスとクラヴの邂逅みたいな文言をみたけど、確かにその通りで、だからこそSCUM PARKの盛り上がりにあたしも湧いているわけです。
わたし自身そこらへんの感覚はライヴハウスにハマった頃からあまり変わっていなくて、2011年9月にゲスバンドがバンド結成の際に企画したイベント「メイクラブ1」の時に書いた感想も、とにかく楽しめがいいじゃんみたいな感じだった。
@yts 踊りまくっているのは本当に楽しいからだし、私がもともとクラブミュージュク出身だからです。とんでもないです!なんでもないことです。こちらこそ、だからこそ、歌舞伎町forever freeで見極めて頂ければと思います。よろしくお願いします。
— ユキちゃん (@ggggray_zone) 2014, 5月 16
磯部:オレはtomadがやってきたことを評価し遅れたことについて自戒の念を持っていて、それは<マルチネ>の音源が、オレが2000年代前半に関係の深かった<ロムズ>の影響下にあるように思えたことや、彼らのパーティーが、同じく関係の深かった<RAW LIFE>の影響下にあるように思えたことが原因だったのかもしてない。ただ、新しい世代が、継承にせよ反動にせよ、前の世代から何かしらの影響を受けているのは当たり前で、本当はそれ以外のオリジナルな部分に目をこらさなきゃいけなかったんだよなぁって。渋谷に移った<渋家>のホームパーティに遊びに行って、そのことを痛感したな。<渋家>も「<素人の乱>の10年度版でしょ?」ぐらいにしか思ってなかったし。(p.208、第四章/SNS的リアリティ)
『東京の場合はみんなもっと愛がひねくれている』(磯部:p.217)
大森靖子:だってミュージシャンはファンの人とチェキ撮ったりしないじゃん? CDをいっぱい買うのが当たり前、みたいなのもないし。それと、ミュージシャンって、自分からいろいろ仕掛けていかないといけないのに、何もやらないの。音楽が良ければいいと思ってるの。
わたしはいわゆるライヴハウスカメラマンみたいなことをやっていたので、神聖かまってちゃんの映像でおなじみのたけう珍具(竹内道宏=銀杏チルドレンのはず)や、前述のニノミー、後藤まりこなどを撮ってる朝岡英輔さん、H Moutainsとかのマナちゃん(スズキマナ)とかいつも顔を合わせる同業同士で自然と仲良くなった。お互いに自分の撮っているバンドのライヴにカメラ2、カメラ3として手伝ってもらったり、カメラマンの地位向上(?)の為にちゃんと撮影したらお金もらおう!とか話したりもした。
「インディ」のライヴを撮影してる特にアマチュアのカメラマンの人たちは、写真や映像を撮るのが好きだから、その音楽が好きだら、メンバーが友達だから、ライヴがタダで観れるから、、理由はそれぞれあるだろうけど、大概はお金を稼ぐためではなく、本人も周りも趣味の域で考えていることが多いと思う。
そのこと自体が悪いなんて微塵も思わないけど、要はみんながみんなそうじゃないってこと。
ちなみにあたしはお金より楽しいもののほうが好き。お金は必要なんだけどねもちろん。
『あなたの意見をきかせてください。人生は短く札束はお墓に持っていけません。どうぞよろしく。(加藤マニ) 』
わたしはバンドマンの人たちはもっと積極的に自らをアピールしていっていいと思う。
まだ見ぬより多くの誰かに自分たちの音楽を聴いてほしいと願っているのなら尚更。
「いずれ誰かに届くはず」っていうのはタダの言い訳で、まず届けるために何ができるかもっと考えて実践したらいい。
もちろんそう思うような人はきっと自分たちの音楽と真面目に(語弊の釈明は省略)向き合っているはずだし。
そこでの選択肢には、ライヴハウスに限らずとも演奏できる場所(venueってやつですかね)はもちろん、アートワーク関係でデザイナーや他ジャンルのアーティスト、フードなんを巻き込んでみたり、今や群雄割拠過ぎて飽和しているとしか思えないけどインターネットの音楽マガジンのようなやつに売り込んでみたり、まさかの行政や地方自治法とか、もう既に先人がいるようなものでも、誰かだやっていたようなことでも、それぞれ自分たちにマッチして出来ることはいろいろあると思うのです。なんか既出過ぎておもしろくないな自分で言っておいて…
この本の第一章で銀杏BOYZが『映画監督や漫画家とのコラボレーションも自在にできたし、しかも商業的にそれを成立させる力もあった』(九龍:p.44)と言われているのと(ゼロの数とか)規模こそ違えど近いと思っていて、00年代ならいざ知らず2014年の今ならそのコラボレーションの幅がもっと振りきれていってもいいはずだし、実際におっと思うような事をやっている人たちもいて。もっとおっ!ってしたいでしょやっぱり。
磯部:ヴェイパーウェイブなんかだと、サウンドとヴィジュアルが一体になったヴィデオ・ドラッグみたいな作品も多い。(p.190)
これはYouTubeにいつくつ有名なチャンネルがあるけど、ビデオをつくっているのはサウンドとは別人というのがほとんだと思う。つまりネットにある音源で勝手にネットにある映像からMVをつくって勝手に公開するというやつ。あたしはどっちにも利があってステキだと思います。Vision Music、Artzie Music、eazy peazy
とか。
「自分たちの音楽さえちゃんとやってればOKでしょ」の時代なんてとっくに終わってるわよってね。
もっと周りを巻き込んだら面白いことになるんじゃないかって皆さんそういう気持ちは少なからずあると思うは承知で。
(がんばった甲斐あって)運良く自分のバンドだけ注目されたとして、それはそれでひとつの正解かもしれない。でもはたして、それがもはや「情報」としての「注目」や「良さ」なのだったとしたら、とてもじゃないけど長続きする(固定ファンが付くような)時代には思えないし、逆にただひたすら受動的なリスナーに消費されるだけで、それは音楽をつくる側にとっても、聴く側にとってもツマラナイものになってしまうのではないかと思っている。
磯部:ミュージシャンとリスナーっていう旧態依然としたポップ・ミュージックの上下構造が続いているから、リスナー側は動員されるか、反発するかみたいな、お客さま気分のままなんじゃないかな。もともとハードコア・パンクやダンス・ミュージックが持っていた水平構造が、日本の音楽と政治の問題にも反映されればまた変わってくると思うんだけど。(p.157、第三章/歌と踊りの政治性)
そこでやっぱりSCUM PARKが頭をよぎるのです。
『アサミ : せっかくいい音楽をやっていても、正しい土俵でやっていないとちゃんと評価されない。単純にこいつらの音楽が好きだってやつが暴れているから、そういう意味で、正しく評価される土壌を「スカムパーク」で作りたい。だから、結果的にあんまり有名じゃない人が集まるのもそういう理由もあるんですよね。いまうまくいっている人たちは、正しいところでうまくいっている。「スカムパーク」みたいな土壌を必要としているのは、シーンからあぶれちゃっている人たちなんですよね。そういうのをイベント単位でできるようになったのはだいぶ間口が広がってきた感じはありますね。外側からもおもしろそうと思ってくれて、才能あるなって思うやつが出てくれたりもして。』
自分たちのシーンをつくることにここまで意識的なパーティーがこんなにも自分の近くにあるという事実。
「シーンはあとから付いて来る」とか「最初から売れることなんて考えてやってない」とか「面白いことをしたいだけ」とかそういう言説は今まで至る所で目にしてきたけど、SCUM PARK周辺のよっぽどストイックで攻めの姿勢が(あたしの妄想や幻想だとしても)、こうして今ひとつのシーンとして蠢いているというところを考えるにつけ、ワクワクさん、どんとストップ、最後にひとつ、夢の中。
もう得体のしれない<RAW LIFE>に憧れなくたっていいの、そう囁くのよ、あたしのゴーストが。
あ、そうそう、電脳化しました。みんなハブ電脳になれるよ。
磯部:(略)おれだってポピュラーなものに社会を見ているものの、それと同じようにアンダーグラウンドなものにも見ているんだよな。小さいから反映の度合いが少ないかというと、そうではないんじゃないか。九龍:アンダーグラウンドかどうかということよりも、そこにしかない局地的なものの持つポテンシャルを引き出すことは批評やジャーナリズムの持っている力のひとつだしね。(p.117、第三章/音楽と「リベラル」)
磯部:(略)『ジャパン』的な雑誌は、音楽を楽しむための付属品としてインタビュー記事をつくっていて、商業性を考えたら、じつはそれがいちばんうまい音楽批評のあり方ってことになるよね。あるいは、音楽とインタビューが合わさることによって、「物語」という新たなエンターテイメントが立ち上がるという。(中略)だから、『ジャパン』のインタビューだけを取り出して批判するのはたやすい。ただ、メディア論的な立場で言えば、逆にそれを、音楽産業構造体のひとつのパーツとして評価しなきゃいけないんじゃないかと。(p.173第三章/「二万字インタビュー」再考)
九龍:現在の音楽産業の置かれている状況って古典派経済学が想定するような透明なマーケットをベースに動いているわけじゃなくて、経済学者のガルブレイスの言う「依存効果」がバリバリ働いていて、生産プロセス自体が消費意欲を刺激するような側面があるわけで、生産プロセス自体も分析や批評の多少になるし、物語化することも可能なんじゃないかな(p.175、第三章/「二万字インタビュー」再考)
磯部:(略)だから音楽批評の役割のひとつには、音楽家の「人生」とその「時代」、あるいは「政治」の関わりをいかに見出すかということがあるのかもしれないね。(p.177、第三章/「二万字インタビュー」再考)
ここまで書いてみると4色ボールペンで無数に線を引かれた箇所にはほとんど触れられてないなと思うのだけど、ドッグイヤーしたところに関しては今の自分にできる精一杯のアウトプットになったと思うので、とりあえずここで擱筆ということにいたします。
♥あとがき♥
"宮崎駿「学生時代に本を読まないのは勝手だけど、そのつけは全部自分が払うんだから。 知識や教養は力じゃないと思っているやつはずいぶん増えたけど、結局、無知なものはやっぱり無知ですからね。 どんなに気が良くて、どんなに一生懸命でも、ものを知らないというのは自分がどこにいるか知らないことですから。」"
わたしはジブリ大好きなので。
こんなに一気に読めたのは山田詠美の『ぼくは勉強ができない』ぶりかと。しかもこれは、「はじめに」〜注釈「おわりに」までぶっ通しで。
磯部さんもゲスバンドのヴォーカル・ギターのぽこにゃんも、Baのキッチン小判鮫も、がんちゃん(VJあたまがぐあんぐあん)も和光大学出身というのは面白い一致だった。あの界隈には和光生がいっぱいいる。話でしか聞いたことがないけど、オモローな大学のようですね。
学生時代わたしは和光にもゆかりのある成城大学で東洋美術史を専攻していて、無数の性愛像で有名なインドはカジュラーホのヒンドゥー教寺院についての卒論を書いていたのだけど、面白かったのは副専攻の文化人類学の方で、教授らは一様にみんな性の話が大好きだったし、その分野の大きなテーマでもある人と人の「つながり」に興味があったわたしは、グローカル研究センターで「アッセンブリー!アッセンブリー!」と言っていた上杉富之教授とかの授業を取っていた。しかしながらまあご多分に漏れず軽音部で遊んでばかりいたので今となってはもっとちゃんと聞いてればよかったなぁ〜と思うのです。
ここからのちのちの為にコピペ。
『韓国から日本に留学したラッパーのMOMENTなんかは、「韓国はラップ・ミュージックを競争という側面からしか捉えなかったがために、奇形的なシーンになってしまった。みんな他人を負かすことばかり考えていて、全体を盛り上げようとしない。一方で日本はコミュニケーションを重視するあまり、慣れ合いが強くなってしまっているでしょう。…」』(磯部:p.120)
『どこの国にも、それぞれのローカルな問題があるわけで、そこに日本からはなくなってしまったカウンター・カルチャー的なロマンティシズムを投影するのではなく、問題をいかに繊細に紐解いていくかっていうことが重要なんじゃないかな。いや、それは国内でも同じか』(磯部:p.129)
『「なんとなく、リベラル」な言説って、都合いい目眩ましになってしまっているケースも多い。音楽のカウンター・カルチャー的な側面がそうしたものと結びつくことで、結果として問題の先送りに加担しているケースもあるかもしれない』(九龍:p.113)
『システムに組み込まれた「自由」っていうのが一番やっかいな問題』(九龍:p.165)
『「複雑さを受け入れる」ことって、「どっちもどっち」みたいな悪しき相対主義に繋がったり、あるいは、問題を誇大化させて行動の足枷になってしまいがちだと思うんだよ。(磯部:p.171)
磯部:じつは風営法がクラブ・カルチャーを守っている側面もあるわけだよ。仮に風営法が撤廃されたら、大企業や悪徳業者が一気に傾れ込んできて、こんな小さなシーン、ひとたまりもないよ。かといって、現行の風営法が時代に合っていないのもたしかだから、適度な規制緩和と、それを促すための地道な運動が必要なんだけど、ほとんどの音楽関係者は「規制=ウザい」「権力=敵」みたいなどうしようもなく幼稚な発想で止まっていて、「ファック・バビロン!」って叫んで終わり』、みたいな。九龍:むしろ運動がカルチャーに対するドーピングになってしまっているケースもある。盛り上がっているときはいいけど、反動が怖いよ。磯部:音楽の本質は現実逃避だし、それこそ坂口の言うような「視点を変える」こととは相性が良いけれど、じつは「社会を変える」ことには向かない。だから、3・11が起きたばかりの頃は音楽家に社会変革を先導して欲しいと思っていたこともあったものの、いまは諦めていて、最近はむしろ社会運動が取りこぼしがちなマイナーな感情を掬い取ってくれることを期待している。(p.141、第三章/音楽が社会を変える必要はない?)
『「売れる」事はいつも「誤解」という理解に近い。隣にいる人でさえ、理解にはたどり着かない、だから誤解の中に感動があるんだ。私は無知に自信を持ったの」と書く。いい話だよね。ようするに、リスナーが聴くのはサウンドだけではなく、イメージを含めた何かであり、それこそがポップ・ミュージックなんだと』(磯部:p.186)
『ただ、大事なのは、どんなにセンスよくいろいろな要素を取り込んでも、元ネタや文脈を知らない人が聴いたときにおもしろがれるものじゃないと流通はしないってことだよね。それでいて元ネタがわかったらわかったで別の楽しみ方もできるっていうのが理想。』(九龍:p.131)
『ただ、オレは、ナイアガラが『ゴー・ゴー・ナイアガラ』を聴いていないとよくわからない音楽だったように、いまはネットで文脈をたどらないとよくわからない音楽というのもあって、それはそれでおもしろいと思うんだよね。』(磯部:p.213)
『すべての音楽は出揃って、そべてのものが用意されているように見えるんだけど、そのぶん状況はどんどんドメスティックになっていて、みんなあまり旅に出ていない、』(九龍:p.220)
『地方のおもしろいバンドの背景にはそれぞれユニークなカルチャーの基板があって』(九龍:p.88)
『ただ、これまでにも話してきた通り、現実にはむしろ逆のことが起こってるわけでしょう。2020年の東京オリンピックに向けて東京の「中央」化が強化され、「地方」の衰退が進んでいる。』(磯部:p.223)
『「幻想」であるからこそ、そこにはまだ多様性を受け入れる土壌があるってことだからね。その多様性とか寛容性を減じないないよう、嘘くさくないやり方で社会と交渉していく術を身につけたいね。』(九龍:p.224)